一生自分探し

数多ある公開自慰ブログのひとつ

偏頭痛

何も生産性の無い日々がもたらす無力感に対する苦痛を和らげ、

かつ自己探求の一端を担わせる為、過去何度目かわからぬ

無駄な始動を行うことにする。 どうせ3日坊主なのだから、

書かなくてもいいのだけれども、休日前の午前1時というのは

こういう気分になるものだ。

 

私は今週に偏頭痛を発症し頭痛持ちの仲間入を果たしたようである。

その原因は寒暖の差が激しい場所を行ったり来たりしたことだろう。

その行動の前にふと逡巡したことを覚えている。  

めんどうだし、寒いし、やめとこうかな。  と。    

そしてもう一、二度、温かい格好をする機会があったにもかかわらず、

短い時間だし平気だと敢行した。 そんな短慮の結果が持病を作る

きっかけになったなんてにわかには信じがたいし、出来れば、

二度と再発しないで欲しい。 それほどの苦痛に3日苛まれた。

人生最大の苦痛であったノロほどではなかったが、もしこれが毎週

発症するもんなら、冗談抜きで生きるのを諦めるレベル。

薬で多少はマシになるのだけども、薬持ち歩いてびくびく怯えながら

生きたいと思うほど、今の私の生に価値などはなからないのである。

私が何故書き始めたのかという点について、とある糞記事を見たところにも

あると言える。 ネタ記事だったのだが、「友達さえいれば何もいらない」

という人間を仏陀扱いしていたのである。 なんでこんなネタ記事に

いたたまれない気持ちと、受け流せない気持ちが芽生えたのだろうか。

おそらくそれは私が生きることに対して笑えない程近く、そして遠くに

いるからではないだろうか。 

私はこの数年間を在家修行という面持ちで過ごしている。 社会勉強

であるが、これはまぁほどほどの苦行である。  

バイクに乗る喜びや、美しい景色に出会うこと、新たな知恵や世界を

体験することなどは在家の内でしか楽しめない快楽ではあるものの、

根本的な、「生きていなければならないこと」に対する苦しみは消えないし、

加えて、好きでもない生の為に好きでもない仕事をするのは苦痛である。

その苦痛は「早く生苦と対峙したいけど出来ない」という焦りの苦しみである。

 

何故生きることを課せられているのか という問いは生活苦の苦しみとは

質が異なるとジキサイ和尚が言っていた点である。 

「なんで小学生するために生まれてきたんやろ」という問いは

電車通学の私に半永遠的な呪縛をもたらした。

普通の人として楽しく生きるという点には立っていない。

けれども、それは楽しいのが嫌いなわけでもないし、

苦しいのが好きなわけでは決して無い。

出来れば苦しいとか楽しいとかあんまり考えずに生きて、

でもどうしても感じるもんだから、せめてなんでそう感じたのかは明らかにしたい。

明らかになりにくいのは苦痛だけど、常に頭が痛かったりしたら、

明らかにしたい苦痛さえ取り除く事もできずに、生きることも辛くなる。

生きていくことの辛さ。 生きていることの辛さ。 

どちらも辛くなったらそら苦行やめて菩提樹の下でコーンポタージュ飲みたいわ。

上手いんだろうなぁ。 染み渡るんだろうなぁ。

なんでこんなに美味しく感じるんだろうなぁ。

生きることってこんなに幸せなことだったっけかなぁ。

なんて思うんだろうなぁ。 今ちょっと涅槃行けた気がする。

少なくとも大峰山ごもりの飯の味はそうだったなぁ。

 

車壊れて、バイク壊れて、骨折って、運動も外出も出来んくて、副鼻腔炎なって

偏頭痛なって割りといろいろ起こってるけど、コーンポタージュの妄想1つで

幸せになれるもんだから幸せなんてわからんもんだわね。

 

ああ眠い。 この眠さは心地が良い。